人気ブログランキング | 話題のタグを見る

教育基本法と「サクラ読本」

やはり、「教育基本法」について、触れないわけにはいきませんね。
巷間、いろんな視点で論議されていますが、少し違った角度で考察してみましょうか。

1933年4月、文部省は小学校の国語の教科書を、
それまで使われていたものから新しいものへ変更しました。
いわゆる「サクラ読本」です。
その年に小学校に入学した生徒から、この教科書「サクラ読本」は使われました。

どんな内容だったか?
それ以前の教科書は、冒頭、次のように始まります。

 ハナ ハト マメ マス ミノ カサ カラカサ カラスガヰマス スズメガヰマス

この教科書で授業を受けたある人の証言によると、
授業では、教師が「ハナ」と黒板に書き、生徒の知っている花の名前を言わせた。
そうやって、身近なものから学習を開始したのですね。

それに対し、「サクラ読本」ではどうか。

 サイタ サイタ サクラ ガ サイタ (咲いた、咲いた、桜が咲いた。)
 コイ コイ シロ コイ (来い、来い、シロ[犬の名]来い。)
 ススメ ススメ ヘイタイ ススメ (進め、進め、兵隊進め。)
 オヒサマ アカイ アサヒ ガ アカイ (お日様赤い、朝日が赤い。)
 ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ (日の丸の旗、万歳、万歳。)
 トマレ トマレ ナ ノ ハナ ニ (止まれ、止まれ、菜の花に。)
 ハシレ ハシレ シロ カテ アカ カテ (走れ、走れ、白勝て、赤勝て。)
 ココマデ オイデ ゾロゾロ オイデ (ここまでおいで、ぞろぞろおいで。)
 ハト ハト オミヤ ノ ヤネ カラ オリテコイ(鳩、鳩、お宮の屋根から降りて来い。)

一番目の文章から、二番目以降の文章へのつながりが、無い。
「コイ」「ススメ」といった命令文になっている。
しかも、内容が限定され、旧教科書での授業のように、
内容を広げていくことができなくなってしまう。

先にあげた人の証言によると、旧教科書で授業を受けた最後の世代の自分に対し、
「サクラ読本」で授業を受けた一つ年下の世代とでは、明確に違うものがあったそうです。
明らかに、「サクラ読本」世代は、傲然と目上の人たちを見下していたものを感じた。
受けた教育による意識の違いです。

この歴史は、見過ごすことはできないですね。
小さい頃に刷り込まれたものが、どれだけの影響をその人の生涯に与えることになるか。

教育は、とても大切です。
そして、その内容に対して、国が干渉することは、極力避けなければならない。
しかし、最近の教育基本法「改正」の論議を見ていると、
まさに、人々の心の中に国が入り込もうとしていると思えてならないのです。

日本は、今、とても危険な方向に進みつつある。
そう憂慮するのは、果たして私一人だけでしょうか?

by兵士シュベイク
# by MYP2004 | 2006-04-16 01:04 | サラリーマンのひとりごと

「日本も中国も好き」という愛国心

ええとそのぉ、「南京虐殺はなかった」「従軍慰安婦はいなかった」と主張される方々は、自分達は愛国者で、「加害者としての過去を直視しようというヤツは日本嫌い」だと思っているようです。これが議論の大前提になっているんですよね。

で、愛国者は中国や韓国を声高に批判し、日本だけが唯一無二の素晴らしい国であると主張するものだと信じていらっしゃるようです。

でも、それってちょっと違いません? そもそも国とひとくちに言っても、国家体制と国民とは別物。国とは、仲間や家族などの愛する者たちの延長ではありません。この両者を峻別してこそ近代人。

お互いを尊重し合うのも愛国心です。私たちが日本を好きなように、中国の人は中国が好きなのでしょう。それを認め合わないと、健全な愛国心は成立しないと思います。

それに、「日本も好きだけど中国も好き」という愛国心もあります。グローバル時代の愛国心は、こういう開かれたものではないでしょうか。

実例を挙げましょう。私が愛読している二つのブログの書き手です。
一人は武漢大学に留学中の男性。中国に来て、日本人であることを強く意識すると共に、アジア人であるという意識が出てきたと書いています。
「心の中でのアジア人宣言」4月3日のブログです。
http://blog.livedoor.jp/sdi054/

もう一人は上海在住の女性。
中国に骨を埋めるつもりだけど、日本も大好きだそうです。
「上海の魔物 中国との関わり方」3月9日のブログです。
http://blog.livedoor.jp/sdi061/archives/2006-03.html

私も日本が好きですよ。中国の茶色っぽい大陸的風景を見ると、緑したたる日本の山河はいいものだと思います。川もきれいだし。相手に気を遣うし秩序感覚に秀でているし。

北京のマクドナルドで、真面目に並んで中国人に割り込まれ、お人好しでお土産の押し売りに根負けし、タクシー運転手さんの乱暴な運転に脅えている日本人をみると、つくづく島国から来た仲間という感じがしました(笑)

でも、主張がはっきりしていてパワフルな中国の人もまた、面白いなと思うのです。国土が広いとああいう気質になるんですね。ハチャメチャで、何でもアリ(笑)びっくり箱のような国です。上海に行ってきた近所の人が、「中国に行くと子どもに戻れる」と言っていました。

戦前の日本はアジアに出て行くのに、大東亜共栄圏という思想を掲げて失敗しました。戦後は専ら経済的関係に専念してきました。でもそろそろアジアの仲間として、もう一度関係を構築する時に来ていると思うのです。 by G2
# by MYP2004 | 2006-04-08 15:50 | リビングから見た社会

思想の中核と辺縁 ― 憲法第9条

実は、憲法第9条は平和の理念を条文化したものではない。

1945年8月15日の終戦の玉音放送から程なく、日本軍は各部隊レベルで自主解散した。9月2日にGHQが日本軍に解散命令を出したときに、日本軍はもう存在していなかった。憲法第9条ができる以前に、日本は軍隊を持たない国になっていた。

日本国憲法の成立過程で、国会において憲法第9条に反対の意を示したのは日本共産党議員、それもたった1人だけだった。

憲法第9条は軍隊解散の経験への追認だ。

さて、平和運動寄りの人間としては稀なことだが、軍隊のみが国家主権を保証できる、と私は考えている。日本には軍隊がない。軍法会議や軍事裁判所を持たず、条件によっては隊員の脱走を効果的に防げない自衛隊は軍隊とは呼べない。自衛隊が命懸けで戦うことができることを期待できるのは、日本が侵略を受けた場合のみだ。

まとめると、自衛隊の存在は日本の国家主権を主張しているが、保証はしていない。

国家主権を保証できないのは良くない、と考えていた高校生の頃、私は改憲論者だった。

ところが、成長と共にいろいろなものが見えるようになった。

軍隊を持っている国の方が、なぜだか軍事的な理由で死ぬ国民の数が多い。

先進国を考えると、2001年9月11日に、世界最強軍隊を持つアメリカではテロ攻撃で数千人が死んだ。しかし、軍隊を持たない日本ではイスラム教徒のテロ攻撃がまだ起こっていない。

発展途上国が多い中米は長らく戦火が絶えなかったが、1949年以降軍隊を持たないコスタリカは例外的に平和だった。

アメリカが日本を守ってくれているということを否定はしない。それも軍隊をもたない日本の現実の一部だ。しかし、アメリカ軍は韓国にもいる。そして、軍隊を持つ韓国での北朝鮮による拉致問題は、日本のそれよりも遥かに深刻で、人数も多い。

思想の中核と辺縁 ― 憲法第9条_e0010246_037497.gif軍隊を持たない日本は、おそらく人類市場空前の復興と高度成長を成し遂げた国でもある。戦前の50年の成長を、戦後の10年が上回っている。

思想の中核と辺縁 ― 憲法第9条_e0010246_042221.gifまた、日本は"犯罪天国"といわれるにもかかわらず、犯罪率が低く、少年による殺人犯罪率の低さは驚異的だ。デーン·アーチャーとローズマリー·ガートナーは共著«暴力と殺人の国際比較»で、戦争を遂行する国の犯罪率が一般に上昇することをつまびらかにしている。日本を戦争しない国にしている憲法第9条は、日本の治安維持にも貢献している。

憲法第9条を変える必要があるだろうか?

国内でも約300万人の戦争犠牲者、戦後の復興と高度成長、良好な治安などの具体的な経験を、偏狭な民族主義の理念で否定するのは愚かだ。それらの経験を覆すほどの大きな経験がなければ、憲法第9条を変えてはならない。
# by MYP2004 | 2006-04-03 00:59 | 経済の視点から

新世界雑感

久々に新世界へ行きました。
地下鉄堺筋線の恵比寿町を降りて、北へ行くと電気の町・・日本橋(にっぽんばし)・・南へ行くと阪堺電車の恵比寿町駅があって、その東に通天閣への商店街が伸びています。
このあたり一帯を新世界と言います。
庶民的と言われる大阪の町でも、最も庶民的な香りがする町です。
このあたりはまた、もっとも大阪らしい観光地でもあります。
通天閣、新世界商店街、天王寺動物園、フェスティバルゲート・・およそスマートと言うには程遠いこれらの施設は、大阪の熱と個性を発揮して余りあります。

その新世界で、僕は久々に串カツを食い、大量の昼酒を飲み、寿司を食いました。
連れていってもらった店が良かったので、どれも満足する味とボリュームと・・値段でした。
ほろ酔い気分で、友達と別れ、折角だからとあたり一帯を散歩しました。
新世界も昔から比べると随分、きれいになりました。
きれいになった分、かつてのエネルギーはあまり感じられなくなったような気もします。

さて、実はこの場所は知る人は知る・・大阪のもうひとつの顔・・
釜ヶ崎のすぐ近くでもあります。
例えば、地下鉄動物園前駅や花園町駅、JR新今宮駅・・一帯どれくらいの路上生活者がこれら駅をねぐらにしているのか・・
道を歩けば、嫌でもそう行った人たちの姿が目に飛び込んできます。

新世界から一歩南へ・・大阪環状線の線路を超えるとそこは釜ヶ崎です。
労働者の町・・そう言えば聞こえは良いですが、日雇い労務者が多数暮らす町です。
この人たちにとって、今年の冬はことのほか、寒い冬でした。
町はきれいに、立派になっていきますが、彼らの住める場所はどんどん少なくなっていきます。
仕事もかつてのようにたくさんあるわけではありません。
例えば、公共工事の縮小や廃止はこういった人たちの生活を直撃してしまいます。
仕事があれば「ドヤ」と言われる宿泊所で休むことも出来ます。
たまには串カツを食うことも、酒を飲むこともできるでしょう・・・仕事がなければ、寒さを少しでもしのげる場所を探さねばなりません。
僕たちはともすると、こういった人たちを視界から離そうとしてしまいがちです。
けれども、もう一度ここで考えてみて欲しいのです。
だれもが、路上生活者にならないと言う保証はないのです。
もしも自分がそうなってしまったら・・
そう考えると、ないがしろに出来ない問題ではあります。

この地域にはさらに、表立って書く事の出来ない世界・・飛田新地の存在もあります。
大都市とは、本来、混沌としたエネルギーの坩堝である・・
ガード下を歩いていると、そんなことが頭に蘇ってきました。
何故かすれ違うおじさん連中の多くが、手に食パンを3枚ずつ、持っています。
誰かが食パンを配っているのだろうか・・
でも、寒さをしのぐにはなにか暖かいものが・・・要るだろうに・・
僕は、この町で出会った詩人の言葉を思い返していました。

命・・・東淵修

すきまもない命を
すきまもないところに
あなたは横になっている
生きていくのには

立って四分の一畳
座って二分の一畳
寝て一畳

命を粉ごなにして
一畳の間に閉じこめて
息を殺していること


byこう@電車おやじ
# by MYP2004 | 2006-03-30 18:53 | 神戸舞子から世間を見ると

「うどんのつゆ」から「世界の平和」を考える?!

関西人から見て、関東のあのうどんのつゆは、飲めたものじゃない。
「なんや、この真っ黒なつゆは。こんなもん、食べもんとちゃう。」

関東の人から見れば、関西のうどんのつゆは、とても薄いものに感じる。
「なんだよ、こんな薄い色のつゆは。こんなのでよく食べられるね。」

昔、よくこんな会話を、東京出身の友人と大阪出身の友人が交わしていました。

造り方は、どうなんだろう?

Wikipediaの「うどん」の項目によると・・・、

「関東ではそば屋の基本的な調味料である、濃口醤油を煮ながら
 みりんや砂糖を加えてつくるかえしと呼ばれる下地を用いる。
 このかえしを基本に、昆布、鰹節を基本としただしで割って作っており、
 そばつゆに近い。
 一方、関西では昆布、鯖節、鰹節などの複数のだしを基本にしており、
 椎茸や炒り子(イワシの煮干しを炒ったもの)をアクセントとして使う。
 椎茸は甘味、炒り子は辛味が出る。醤油はうすくち醤油を使うことが多い。
 つゆの色は薄く澄んでいる。」

むむ、こうしてみると、つくり方そのものが違うわけだ。
つまり、こうは言えないか。

 『関西と関東のつゆは、もともと違うものだ。』

だから、冒頭の友人同士の会話は、成り立つ余地がない。
だって、違うもの同士を比較し、優劣をつけようとしているのだから。
どっちが優れているか、というものではないわけです。

つまり、友人たちは自分の嗜好を主張し合っているだけなんですね。

そして、ここからが重要なんですが、
自分の持っている価値観で、相手を推し量ろうとしている。

関西人にとって、つゆは色が薄いもの。
だから、関東のあの濃い色のつゆはおかしい。
関東の人から見れば、つゆは濃い口醤油を使うもの。
だから、関西のあのつゆの色は薄すぎる。

これでは、話しになるはずがないですよね。
もともとの土台が違うから。
絶対に一致点はない。


案外、こうしたことって、自分たちの周りに多いんではないでしょうか。

大切なことは、まず、お互いが「違う」ものだという認識を持つこと。
同じ日本人でも、家族兄弟でも、全く別個の人格のはずです。

「あいつのあの態度は許せない」。
そう思うことって、よくありますよね。
そんな時、自分を振り返ってみる。
「自分の狭い了見で、相手を推し量ろうとしていないか」と。
それだけでも、ずいぶん、自分のいる世界が変わるかも。

平和と言っても、こうした身近な所から始まるのではないか。
そんな風にも思いますね。

by兵士シュベイク
# by MYP2004 | 2006-03-25 00:54 | サラリーマンのひとりごと