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ブログ引越しのお知らせ

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by管理人

# by MYP2004 | 2006-05-14 10:51 | 神戸舞子から世間を見ると

日中友好派も、嫌中派も・・・

それにしても、中国・韓国ネタや、戦争ネタになると、面白いくらいの反応がありますね。
今回も、ご期待に応えて、中国ネタで行きましょうか!

いわゆる日中友好派の人たちの嘆いて曰く、
「最近の日中関係の状況は、極めて残念だ。昔はもっと良かったのに。」

いわゆる嫌中派の人々の激して曰く、
「中国ってのはとんでもない国だ。一党独裁で、中国人たちはがめつくって云々。」

いろんな考え方があると思うのですが、兵士シュベイクのおもえらく、
「日本と中国は有史以来、どちらもが経験したことがない歴史的段階に入っている」と。

20世紀末までは、双方、求める意識のある人たちが交流してきた。

有名な遣唐使の時代では、
日本からは、留学生や僧たちが、文化を学ぶために入唐した。
中国からは、自国の文化を伝える使命感に燃えて、日本へ渡ってきた。
いずれも、荒波を乗り越えて、です。
時代は下って、いわゆる日中国交正常化以降も、基本的には、この状況は同じです。

20世紀末までは、いうなれば、結婚前の恋人同士の関係に似ている。
つまり、お互いのいいところだけを見せ合ってきたわけです。

ところが、20世紀末、状況は激変する。
交通手段の発達や、何よりも、一番大きな要因は「ITの発達」でしょう。

ここに至って、日本と中国は、有史以来、どちらも経験したことのない段階へと
突入したわけです。
お互いが、相手の今まで見たことのない部分を目にしたわけです。
例えていうなら、
美しく着飾っていた女性の、大口をあけていびきをかいている寝姿を見て、幻滅したのです。
カッコよかった男の、家の中でところかまわずオナラをこく姿を見て、幻滅したのです。

兵士シュベイクのおもえらく。

だからと言って、お互いを非難しあったって、しょうがないでしょう。
少なくとも、日本にいる者としては、
「中国って、とんでもない国だ。中共は人権無視の独裁者だ」
と非難して、どうすんの?

お互いのいい面を見た。そして、嫌な面も目にした。
それで、さあ、どうするのか。
離婚して、ハイおしまい、というわけにはいかないぞ。
こいつ嫌やから、引越ししよう、というわけにはいかないぞ。

さあ、どうする? どうする?

by兵士シュベイク
# by MYP2004 | 2006-05-07 23:04 | サラリーマンのひとりごと

帝国海軍元兵士の方を悼む

第二次世界大戦時の巡洋艦鹿島は、旧帝国海軍の中で生き残った運のよい戦艦です。
この鹿島に尾道出身の一人の青年が乗り込んで大陸へと向かいました。
もう70年近く前の話です。
この青年が、後に、僕にとっては大切なお客様の一人となられた方です。
(そうそう、僕は町中の写真屋です)

青年の軍隊は上海に上陸・・日本軍の統治下にあった上海の町は、当時としても日本のどの町よりも美しく、都会的であったそうです。
青年の部隊は隊伍を整え、上海市内を行軍しました。
当時の上海は既にクルマも多く、路面電車やバスも走っていたそうですが、それらの交通を全て遮断して日本軍司令部まで、行軍は続いたそうです。
部隊はしばらく上海に滞在した後、南京に移動・・
南京では青年は陸軍が侵攻して行った破壊の跡をまざまざと見ることになります。
ここでは、当時、やや年上で後に友情を結ぶことになる別の青年も、この街の任務についていましたが、このときはお互い、知る術もありません。

生来のお人よし・・
決して威張ることなく、軍隊では目立たない存在だったそうです。
終戦で鹿島とともに青年はお役御免となります。

戦後は小さな鉄工所に勤め、やがて技術を取得して独立・・
高度経済成長の波に乗り、かつての青年が壮年になる頃には作り上げた会社が軌道に乗り、贅沢とは言わないまでも一人前以上の暮らしをするようになっていました。
そんなとき、自宅近くの壮年と知り合います。
始めは趣味の庭弄りから・・そして、その壮年が得意にしていたカメラを、ともに楽しむようになられます。
そして、その壮年もまた海軍出身で、南京陥落作戦に従軍していたことを知り、二人の間は親密になっていきました。

70歳過ぎて現役を引退・・
自由気ままな暮らしに、最初は戸惑ったものの、生来の楽天家・・
庭弄りとカメラの趣味に没頭するようになっていきました。
そんな中、「鹿島」の戦友会にも毎年欠かさず参加、戦友会から帰ってきたときはいつも海軍の帽子を被ったまま、背筋をしゃんとして伸ばし、しっかり歩く姿が印象的でした。
昨年は何を思われたか、春先から何度も呉に行き、自衛艦をたくさん撮影しておられました。
また、映画用に作られた「大和」のセットにも何度も足を運んでおられました。
戦友会はひときわ楽しかったようで、僕にもその楽しさを伝えてくれました。

夏には大勢のお孫さんを連れて、靖国神社へ・・
「みんな、わしの戦友や上官が、あそこに眠っとるんじゃあ・・いっぺん、孫を連れていってやりとおてなぁ・・」
お孫さんは皆10代後半から20代前半の青年たち・・
彼が青年時代には考えられないような服装で、そして、元気で明るい・・
そのお孫さんたちが、靖国神社でおじいさんの話を聞いて、泣いたそうです。

冬・・しばらくお顔を見ない時期がありました。
そのあと、ビックリするくらい、たくさんのフィルムを持ってこられ、上機嫌でこう言われました。
「上海にいってきたんじゃあ!」
青年のように頬を紅潮させて・・
「上海はすごいんじゃ!あの上海があんな立派な街になっとるんじゃあ・・!わし、腰を抜かしてしもうてなあ・・いやあ・・中国人の頑張りはすごいわ」
「かつての軍司令のビルも見に行ったがなぁ・・昔は、そのビルだけが立派な建物やったんじゃ・・今は後ろにもっと大きなビルがたくさんあってなぁ」
帰国後も感動さめやらぬのでしょうか・・僕に一生懸命に話をしてくれました。
中国人のガイドさんも立派な方で、反日運動が激しい中、誠意をつくして、見たい所をすべて見に連れて行ってくれたそうです。

今年の春は寒く、神戸の桜が咲き始めたのは、例年に比べずいぶん遅くなってからでした。
自宅の桜や雪柳を撮影した写真を受け取りにこられ・・
「いつまでも寒いなあ!」
そう元気に笑っておられたのが、お姿を見た最後でした。
1種間ほどして、その人よりも10歳も年上の、その人の友人が、沈痛な表情で喪服を着て来店されました。
黙って現像に出されるフィルムに写っていたのはまさに、ついこの間、上海にいってこられた、あの方でした。

今日は敢えて、僕がお聞きした事と、その方の思い出だけを書きました。

今はもう、いつもの優しい笑顔を見る事が出来なくなってしまった、その方のご冥福をお祈り申し上げます。

byこう@電車おやじ
# by MYP2004 | 2006-05-02 21:01 | 神戸舞子から世間を見ると

本当の反日は誰か:日本人に対する戦争責任を問う

 私は最近、ある事に気がつきました。中国や韓国を忌み嫌い、「南京虐殺はなかった」「従軍慰安婦」はいなかったと主張し、靖国神社参拝を賛美する方々は、アジア太平洋戦争が日本人にどれほどの苦しみを味あわせたか、知る機会がなかったのではないでしょうか。

 日本でも戦後20年ぐらいは、辛く過酷な戦争体験が日常にあふれていました。両親からもよく聞かされたし、そういう映画もたくさんありました。テレビでも、夜の8時というゴールデンタイムに、「戦友」というドラマをやっていたぐらいです。私のような戦争を知らない子どもには、唖然とするような恐ろしい内容でしたよ。

 言論の自由に対する過酷な弾圧。生徒が教師を密告し、天皇陛下の「て」という言葉が聞こえたとたん、直立不動にならなければいけない社会・・・。息子が戦死しても、「靖国の母」として、人前では泣くことも許されなかったのです。異性と仲良くしても、ジャズを聴いても非国民。もちろん、戦争に反対することは拷問と死を意味しました。

 そして何より凄まじかったのは、軍隊における異常ないじめと虐待。日本軍はサディズムの世界でした。何の理由も意味もなく、上官から毎日殴られ蹴られるところでした。実戦の方がまだマシなぐらいで、いざ戦闘が始まると、敵ではなく上官を撃つ兵士がたくさんいたのです。日本軍兵士がアジア各地で繰り広げた残虐行為は、そういった日頃のうっぷんを晴らすものでもあったわけです。

 「嘘だ〜!」という方は、「真空地帯」や「人間の条件」、「暁に祈る」といった映画を観てみてください。黒澤明の「我が青春に悔いなし」もオススメです(いずれもビデオかDVDあり)。軍国主義から解放された日本人が、どんな思いで戦争を振り返ったか。そこには、元兵士の多くが口を閉ざして語らなかった、日本軍内部の凄まじい実態が描かれていました。

 多くの日本人はようやく知ったのです。「天皇の赤子」「アジアの解放」という美名の下に、何が行なわれていたか。「あんなに辛い思いをしたのに加害者だったなんて・・・・」。この無念さが、日本人の複雑な精神構造を作り上げました。この点は韓国や中国の人には、なかなか理解できないかもしれませんね。

 日本人は戦争責任について考え続ける必要があります。東京裁判は勝者による不公正なものでしたが、だからといって戦争を遂行した指導者たちに責任がないとは言えないでしょう。またそれに協力し、戦争を嫌がる人を迫害した日本人も大勢いました。そして、軍隊内部で思うがままに暴力を振るった鬼のような上官たちも、戦争が終わったら良き父に戻っていったのです。

 あれだけの残虐性はどこから生まれてきたのか。繊細で気配り上手の優しい日本人が、どうして集団で狂ったのか。これは今につながる重要な問いかけです。これらの問題を隠蔽し過去に目を閉ざすことこそ、本当の反日だと私は考えます。そして真の愛国心とは、この問題意識を持ち続けることだと思っています。by G2
# by MYP2004 | 2006-04-28 19:58 | リビングから見た社会

思想の中核と辺縁 ― 先行経験の継承:護憲派の失敗

マーク·ブキャナンの«複雑な世界、単純な法則»には、生物を構成する分子から国家を構成する人間まで、様々なスケールの物事に、かなり共通する法則がある旨が述べられている。結節点と経路を研究する学問として、ネットワーク科学は説得力を増しつつある。

会社に当てはまることは、ある程度、社会運動や国家全体にも当てはまる、という前提で、この話を進めていく。

ソニーのウォークマンはカセットテープを媒体とする携帯型ステレオ再生機として、市場に支持された。また、鋭い高音部を特長とする再生特性は、音楽の作り方そのものにも影響を与えたと思う。

ソニーは媒体の普及に応じて、CDウォークマンやMDウォークマンを出した。ところが、ハードディスクが普及してきたときに、HDウォークマンとなるべき新製品開発を前に足踏みし、アップルのiPodの後塵を拝し、普及したフォーマットMP3ではなく独自フォーマットATRACに拘るなど、迷走を続けた。

ソニーの低迷は、テレビやディスプレイの分野にも見られた。"聖なる機器"トリニトロンに拘るあまり、省スペース液晶テレビに魅了される市場にそっぽを向かれた。

ソニーの失敗は経験の結果を継承しながら、経験そのものを継承しなかったことにある。MDウォークマンやトリニトロンという結果への執着は、それらの製品を開発した経験の継承をむしろ妨げた。

護憲派の失敗とソニーの失敗には似ているところがある。

太平洋戦争終結直後、日本軍は部隊レベルで自主解散した。GHQが1945年9月2日に解散命令を出したときには、日本軍は既に存在しなくなっていた。憲法第9条はこの現実に対する追認だった。日本共産党以外に憲法第9条に反対した政治勢力はなかった。

個人を動員する体制に対し、個人が"否"を突きつけた経験を、大部分の護憲派はうまく継承できていない。

護憲派が今後も政治的な影響力を維持していくには、原点の再確認が必要だと私は思う。護憲派が規範とすべき事例の1つに、べ平連から派生したJATECがある。彼らはアメリカ人脱走兵の亡命を支援した。彼らは憲法第9条についてはあまり語らなかったが、憲法第9条につながる経験の数少ない継承者だった。

日の丸や君が代を嫌う教師が卒業式を妨害するのは、憲法第9条に先行する経験の継承とは少々違う。そういう教師はむしろ、軍隊から去っていった旧日本軍兵士のように、卒業式の場を欠席すべで、生徒についても同様のことがいえるだろう。(経済の現状を考えると、400人に1人くらいが政治的な理由で卒業式への出席を拒否するのが、健全な日本社会の姿だと個人的には思う。)

朝鮮半島や中国では今でも強制徴兵制が行われている。韓国政府はほとんど韓国語を話せない在日朝鮮系の若者をも徴兵したことがあると聞く。この状況に何の異議も唱えずに黙認し、韓国や中国の肩を持ち、日本の自民党を批判するのは、もう止めた方がいい。朝鮮半島人や中国人が徴兵を拒否したら、日本の護憲派は、徴兵を今でも続けているそれらの国々の政府を批判すべきだ。

護憲派は与党内にもいるが、彼らに対してもいいたいことがある。1964年の核実験で中国が核保有国になったあとも、日本は資金や技術の提供という形で、中国への経済援助を続けてきた。これではいくら護憲を謳っても、日本の国民を説得することなど期待できるはずもない。

by Leoneed, also know as Lexar
# by MYP2004 | 2006-04-22 13:47 | 経済の視点から