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人口減少社会を救う?!ために:個人の自由を認めよ

日本の人口が初めて減り始めて、「国力が衰える」「年金や医療保険制度が崩壊する」と大騒ぎになっています。

「産みにくい、育てにくい社会だ」という意見も多く、猪口少子化担当大臣が「子供や母親の目線に寄り添った施策を」と記者会見で言っていました。こういう視点は歓迎です。頑張れ、猪口大臣! 青いドレスの件は水に流すぞ。

この際、残業が当たり前の社会も、「男は外、女は家の中」という根強い慣習も、「仕事しながらの子育ては無理」な環境も先入観も、全て根本から変えていったらどうでしょうか。経済至上主義を支えてきた性別役割分業こそ、少子化の黒幕の一つです。

子どもは皆で育てましょう〜♪ 「仕事か子育てか」の二者択一を迫るような社会は、人口が減る一方ですよ。人間は高等生物であって、生殖だけのために生きているわけではありませんからね。

産まない自由もアリです。豊かになって高等教育を受ければ、子育てが全てというわけにはいきません。子育てを女性の責任にする社会は人口が減ります。

「女性がワガママになった」とか、「子どもを産まずに人生をエンジョイした女性の老後を、国が見なくてはならないのはおかしい」とか、見当はずれの放言のしていた政治家たちの責任を問いたい。

今や社会学の教科書にも載っている常識的な概念であるジェンダーを、今さら「過激だ」と駆逐しようとしている政治家たちも、間違っていますよ。

そもそも、どうして「国力の衰退」というような体制の言葉で語られるのか。大切なのは、皆が幸せに生きていけることでしょう? 特別に能力が高くない人も障害のある人も、夢を持って生きていける社会こそ「活力ある社会」。子供の数が多ければいいというものじゃない。

それに、若者の就職も自活も難しい状況で、子どもだけはつくれというのか。自分が生きていくのがやっとの若者も大勢いるのに。それに、結婚するためにはまず恋愛が必要。それが難しいんですよ。

愛と相性を大切にすればするほど、簡単に相手は決まりません。チンパンジーだって相手選びが難しく、なかなか子どもができないのですから。こういう社会では、結婚せずに子どもを持つ生き方も認めないと。家庭の大切さばかり強調するのは逆効果です。

総じて、少子化対策の根本は「夢」と「恋愛の対象となる魅力的な異性」。それを成立させる「懐の深い社会」と、「自由な生き方を支える仕組み」です。憲法の前文で個人の自由を制限しようとしている現体制の意向は、まさに逆行です。

司馬遼太郎は日本の未来像を、「美しい停滞」という言葉で表現しました。それもいいかもしれませんね。ひたすら数的発展を目指していた近代日本が終わったのですから。時代の転換点です。今必要なのは、一時流行して空振りに終わった「発想の転換」。今度は本気でね。 by G2
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by MYP2004 | 2005-12-30 17:01 | リビングから見た社会

クリスマス雑感

クリスマスとは、イエス・キリストの降誕を祝う日として一般的に認識されていますが、そのイエス・キリストからの長い歴史を有するはずのカトリック教会での認識はちょっと違うようです。

以下はカトリック中央協議会のホームページhttp://www.cbcj.catholic.jp/から・・

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クリスマスはキリストの誕生、すなわち、神のひとり子キリストの誕生を思い起こす日として古代から祝われてきました。 イエスがいつ生まれたか、聖書には何も書いてありません。 12月25日がイエスの誕生の日とする最古の記録は、4世紀のローマの「殉教者帰天日表」です。


しかし昔は、地方によって1月6日に祝っていました。ちなみにロシア正教会は、今でも1月はじめにキリストの降誕を祝います。

ではなぜ、ヨーロッパのクリスマスは、12月25日に祝われるようになったのでしょうか?
つぎの説が、有力であるといわれています。

昔むかしローマ帝国内では、太陽崇拝が広く行われていました。 ローマ暦では12月25日が冬至で、この日を太陽誕生の祝日として祝っていたそうです。教会はこの祭日を取り入れ、「正義の太陽」であるキリストの誕生の日として祝うようになったそうです。


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単純に考えると、実はイエスの誕生日は1月6日あたりが有力で、12月25日と言うのは、教義的な降誕を意味する日として選ばれているようです。
僕はキリスト教徒ではありませんから、だからどうと言うことではないのですが、「生誕の記念日」よりも「正義の太陽であるキリストの誕生を思い起こす日」を選んで祝うあたり、なかなか考えさせるものがありますね。
さて、1月にしろ、12月にしろ、イエスは冬に生まれたようです。
中東、今のイスラエル・・気温は思ったほど高くはなく、最高で20度、最低で8度あたりと言いますから日本の中では屋久島あたりの気温に近い気がします。
これでは夜は寒く、伝説のとおり、暖房のない馬小屋でイエスが生まれたなら、母マリアにとっては、非常に苦しいお産であったでしょう・・

いまやクリスマスと言えば、キリスト教徒ではない僕たちにとっても、イルミネーションの美しい夜や、豪華なご馳走、子供たちへのプレゼントなどをイメージさせ、すっかり冬の行事として定着した感もありますが、それは反面には企業などの宣伝活動が功を奏した部分も多いと思いのですね。
結果として日本のクリスマスイブには高級ホテルは予約で満員・・レストランもちょっとおしゃれな居酒屋も、クリスマスの夜を楽しむカップルであふれます。
ただ、肝心のローマ法王庁はこう言うクリスマスが派手な商業イベントと化すのには抵抗があるようで・・

新聞報道によると、法王ベネディクト16世は「真の贈り物は『喜び』であって、高価な品物ではありません」と繰り返し商業主義を戒めているそうです。
貧しい旅の夫婦が、ようやく求めた一夜の仮の宿・・
そこで生まれたイエスを思うとき、クリスマスの現状はまさに、イエスの思想の正反対になってしまっているのかもしれませんね。
ただ、聖母マリアに思いを馳せるとき(教義的な部分は別にして)、寒い冬の時期にクリスマス・イルミネーションが散りばめられた町の中で、温かい部屋で家族の絆を見つめなおすと言うのは、なかなか良い習慣だと思うのです。

この日ばかりは、いつも酔っ払って帰るお父さんも、寝息を立てる子供の顔を見ながら、そっとプレゼントを枕元に置くサンタ・クロースに変身するわけで、その瞬間に家族と言う不思議な絆を思い返すことが出来るわけですね。
さて、そのサンタクロースの原形といわれる「セント・ニクラウス」は、3世紀頃の今のトルコの司教だったと言われています。
彼は慈悲深い人で、いつも貧しい人たちを、とくに大切に遇していたそうです。
あるとき、彼は貧しい3人の娘が住む家の暖炉に、金貨を投げ込み、娘たちに幸せな結婚をプレゼントした・・これが今のサンタクロースによるクリスマスプレゼントの元になっているようです。

ミニスカートのサンタクロースお姉さんが、商業的な笑顔で微笑んでくれるよりずっと、夢のあるお話ですよね。

byこう@電車おやじ
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by MYP2004 | 2005-12-24 19:13 | 神戸舞子から世間を見ると

「下流社会」の若者たち

三浦展著「下流社会」(光文社新書)が売れているらしい。「下流」という言葉は、今や流行語になっています。この本自体はまぁ、軽〜い内容。タイトルのインパクトが全てと言ってもいいのではないでしょうか。

なるほど「下流」ねぇ・・・。「上流」があるのだから「下流」があってもおかしくありませんが、それにしてもうまいタイトルを付けたものです。さすが、バブル期のマ−ケティングをリードした元「アクロス」編集長だけのことはある。帯に書かれている「いつかはクラウンから、毎日100円ショップの時代へ」というキャッチフレーズも憎い(笑)。

で、下流とは「ただ収入が少ないだけではなくて、何事にも意欲が低い」のが特徴だとか。この「意欲の低さ」をめぐって今、議論百出なのです。ここから、「今の若者は意欲が低い」「もっと競争心を持たないとダメだ」という主張が出てくるわけです。

で、私がこだわるのもここ。どうして意欲が持てない若者が出てきたのか。様々な理由があるわけですが、見落としてならないのは、著者を始め多くの論者が比較の基準にする高度成長期は、特別に皆が意欲を持てた時代だったということです。

あの時代は本当に特別だったのですよ。その社会が数百年に一度ぐらいしか経験しない、特別な発展期。小学校しか出ていない人が総理大臣になれたぐらい、社会の流動性も高かった。学歴社会のように見えて、実は抜け道がたくさんあり、はみ出し者にも居場所がありました。

でも今は、政治家の家に生まれるか、アメリカに行ってMBAを取ってビジネス・エリートにならなければ、難しいでしょう? だから、「昔は」と言って、あの時代を基準にしてはいけないと思うのです。

頑張れば誰でも豊かになれて、みんな結婚できた。そういう時期は歴史を見ても稀です。私は運良く、経済成長の恩恵を受ける事ができました。でも永山則夫のように、豊かになっていく社会から取り残されて、自暴自棄になって連続殺人犯になった人間もいたのです。あの時代でも。

そして今、高度成長の果実が消え階層分化していく現実の中で、夢を持ち続けて向上していくには相当な精神力と能力を必要とします。24時間以内に発送するため、注文された本をアマゾンの倉庫でひたすら探し続けるフリーターに、六本木ヒルズ入りを目指して頑張れと言えるでしょうか。

気持ちだけで現実を切り開ける社会ではなくなっているのです。生き方や価値観は、つまり意識は多様化しているのですが、それを生かす仕組みにはなっていません。逆にどんどん閉じていて、実際の選択肢は狭くなっています。しかも、早い段階でその壁に突き当たります。これは、20才前後の若者たちに接している私の実感でもあります。

こういう事態を招いた原因の一つは、能力を細かく査定するシステムの整備にあります。「チャンスは平等に与えられている。成功したのは努力したからだ」という言論の勘違いは、能力差をはっきりさせることがモチベーションを上げるという思い違いから来ています。

点数を入力すれば、たちどころに小数点第二位まで偏差値が出て、受験可能な学校が明示される。そこで自分の未来は見えてしまいます。そもそも夢を持てる社会というのは、自分のポジションがもっと曖昧なんですよ。曖昧にしておく良さというのがあるのです。

なぜなら、ほとんどの人はそんなに高い能力を持っていないからです。能力の厳密な評価よりも期待や激励の方が、はるかにモチベーションを高めると思いませんか。よく政治家が「競い合う気持ちが欠けている」などと言いますが、見当はずれもいいところです。

私は大学院に進学する時、奨学金の申請をしました。幸い給付が決まって通知が来て、そこにこう書いてあったのです。「あなたを社会に有為な人材と認める」。それは全員に伝えられる形式的な文言に過ぎなかったのですが、あの時の感動を、私は今も忘れることができません。 by G2
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by MYP2004 | 2005-12-19 21:47 | リビングから見た社会

「塾講師、生徒を刺殺」事件の複雑な背景

京都で、大学生のアルバイト講師が塾の教室で生徒を刺殺しました。子どもが被害者になる悲惨な事件が相次いでいるだけに、「今度は塾で」「塾までもが」という衝撃が広がっています。本当に絶句ですよね・・・。

実際には、塾を舞台にしたトラブルはしばしば起きていました。今までは学校での事件の陰に隠れていただけで、全くの想定外ということはなかったのです。この事件は、講師の個人的資質にのみ原因を求めるのではなく、多様な視点から見ることが必要だと思います。

実は私、日能研のリュックを背負った子どもたちが、夜の10時頃に電車に乗っていたり、コンビニでアダルト雑誌を立ち読みしていたりしているのが、以前からすご〜く気になっていたのですよ。

大学生の二人の娘も、「ああいう生活、良くないよね。だいたい危ないし」といつも心配しています。(日能研は、首都圏に広く展開している、中学受験のための塾です)

夕食はどうしているのでしょう。お弁当を持っていったり、帰ってから食べたり色々らしい。中には、近くのマクドナルドと提携している塾もあるそうです。

近所でこの春、一人の少年が中学受験に成功しましたが、塾へ行く日は母親がお弁当と着替えを持っていき、中野の丸井で急いで食べさせて着替えさせ、塾へ送り出すという生活でした。それが5年生になるとほぼ毎日でしたからね。

「食育」とか何とか言いながら、塾通いによる食生活への影響はあまり話題にならないのね〜。何か、話がいつも「家庭」と「母親」に収れんされるようで、納得がいきませんが。

それと、小学校高学年という難しい時期の少女を、大学生がどこまで指導できるのかということも、日頃から気になっていたことです。

「現役高校生のための塾」で急伸している早稲田塾は、広告に力を入れる分、講師料を削って大学生を積極的に雇用していますが、高校生と大学生というのも微妙な距離ですから。気をつけないと。こういうことも「危ない」と囁かれながら、何か事件が起こるまで放置されるんでしょうね・・・。

また今回の事件は、女の子の口達者を軽くかわせない不器用さや、プライドの高さも一因となっていたのではないかと思われます。塾講師に多いこういう秀才タイプの共通点も、これからは考えていかなくてはならないでしょう。

というふうに、様々な要因が絡んでいると思われる今回の事件。再発を防ぐためには、多角的な分析が必要だと思います。  by G2
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by MYP2004 | 2005-12-13 22:20 | リビングから見た社会

危うい橋の上

僕が個人で運営しているホームページですが、これはプロバイダーのサービスの力を借りています。
で、そのプロバイダーのサービスの大きな変更が先方から連絡され、今後は新ソフトによるホームページの構築と更新を求められるようになりました。
ところが、この新ソフトというのがうまく動いてくれず、いくらプロバイダーと連絡を取り合いながら進めても、上手くいかなかったのです。
ところが、数日前、それまで何度やっても出来なかった新ソフトでのホームページ立ち上げ作業が、突然、出来るようになりました。
そこで、とりあえず、新サイト上に一部のページを移設し、公開しました。
一部のコンテンツは、新ソフトに同様のページを作るプログラムがないことから、移設を断念し、そのまま、旧サイト・・として公開を続けることにしました。

個人のホームページですから、この程度のことが出来ればそれで良いのかもしれませんが、プロバイダーの意向一つ、ネット運営会社の思惑一つで大きな変化を求められることもありうるという・・よく考えれば危ない橋の上に、ネット文化と言うものは存在しているわけですね。
インターネット関連企業といえば外資系が多く、そう言った企業の殆どは出先の国内では、その国の政治体制を容認して、それによって認可を得て成り立ってもいるわけで、中国が国家を誹謗するブログを締め出しにかかることをヤフーは承認した上で、国家に協力し、そう言った記事を見つけると報告すると言うことまでしています。
韓国では国内世論に推され、グーグルが日本海の名称を「東海」に変えてしまったということも報じられています。
こうして考えると、ネットが民衆運動の新しい形であると言うのには、まだ無理があるような気がしてしかたがありません。
ネットは、ある面では情報統制が可能で、国家や企業に有益な情報だけを流すようにすることも可能なわけです。
ネット上で自然発生的に立ち上がりつつある社会運動は、いずれ、ネットを飛び越えて、リアルの世界での連携に繋がらないと、その存続すら危うくなって来ることも十分考えられます。

また、ネットはそこに参加する人の悪意善意を峻別することが出来ません。
文字だけのやりとりであり、それはあくまでもバーチャルな存在なわけです。
運動というものはバーチャルでは成り立たず、リアルでの成果が必要になってきます。
ネット上での運動の限界はまさにそこにあるわけで、世論の形成と言ったことを目指す我がMYPもどこかで現実世界へ出なければ運動そのものが成り立たないといった、ジレンマにも陥るわけです。

今、多くの社会運動はヤフーやインフォシークのMLを利用して行なわれていますが、これら企業が突然、情報操作を始めたら・・そう考えると怖くなってきますね。
現実にブログなどでは特定の団体を批判するものは閉鎖するように促されるという現実もあります。
ネット文化は案外、自由闊達なものではなく、統制の仕方によっては非常に危なっかしい橋の上に成り立っているような・・そんな気がするわけですが・・

BYこう@電車おやじ
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by MYP2004 | 2005-12-09 16:04 | 神戸舞子から世間を見ると

子どもの安全を守るには

子どもが犠牲にまる痛ましい事件が次々に起こり、報道されて、子を持つ親の心配はつのるばかりです。どうしたら子どもの安全を守ることができるか、学校も自治体も国も途方に暮れています。本当にどうしたらいいのでしょうね・・・。

そういうニュースを見る度に、我が家で話題に出る出来事があるのです。今を去る十数年前、長女が小学校低学年の頃のことです。当時、長女は家から電車に乗って一時間半もかかる学校に通っていました。

まだ携帯電話もなかった頃で、登下校中は子どもが公衆電話からかけてこない限り、全く連絡が取れません。帰り道、疲れた子どもが寝過ごして、終点の東京駅まで行ってしまうこともしばしば。それはもう、色々な事がありましたよ。

で、親は最初でこそ心配するのですが、「送り迎え禁止」という学校の方針もあり、数ヶ月もすると慣れてしまって腹が座ります。「なるようになる」と開き直るというか。今思うと、よく平気でいられたと思うほどですが、通学経路に人通りの多いことが、安心材料になっていたような気がします。

実は私自身が、バスに乗って幼稚園に通っていたという過去があるのです(笑)。幼稚園の送迎バスではありません。普通の路線バスです。間違えて違うバスに乗ってしまい、途中で降りて見知らぬ街をさまよい、交番に駆け込んで泣いたこともありました。しかし、やはり「送り迎え厳禁」というのが、その幼稚園の方針だったのです。

今では考えられませんね。そんな方針を掲げたら、生徒が集まらないでしょう。逆に、安全をキャッチフレーズにする学校が出てきています。校門を出た時間をコンピュータで把握、親に連絡するそうです。不安がいかに教育現場を変えるか、よくわかります。今や、「犯罪」と「ゆとり教育」をいかに避けるかが最大の課題になっています。

さて長女の件ですが、乗り換え駅である中野でトイレに入った時のこと。後から入ってきた男性が目の前に来て、いきなりズボンを下ろしたのですよ。訳がわからないでいる長女。そこに(長女いわく)30代ぐらいの女性が入ってきました。その女性はすぐに異変に気づき、「あなたっ、そこで何してるのよっ!」と怒鳴ると、カバンを振り上げて男性を追い出してくれました。

そして長女にこう言ったそうです。「こういう時、黙っていちゃだめよ。『嫌だ』って言って逃げて、大きな声で助けを求めるのよ。わかった?」。長女は訳がわからないまま、その真剣な様子に押されて「うん」と答えたとのこと。

この時の記憶は、成長するにつれて長女の中で鮮明になっていきました。あの時に自分の身に起こったことの意味が、後になるほどよくわかってきて、「本当に危なかった」と繰り返し言っています。「あの時に女性が助けてくれなかったら、あの出来事はトラウマになって残っただろう」と。どこのどなたかわかりませんが、本当に感謝しています(涙)。

成人した長女は、子どもが犠牲になった事件が起こる度にあの事を思い出し、自分にこう問いかけるのだそうです。「ああいう場に出くわした時、私はあの女性のような適切な行動が取れるだろうか」。そして「いや、ああいう行動が取れるように、日頃から心がけなければならない」と誓うとか。

実際、私たちは子どもに限らず、危機的な状況に対してとっさに行動できなくなっています。電車の中での喧嘩、駅のホームでの殴り合い、路上での集団暴行。それらを遠巻きに見ている人の、何と多いことか。どうしてこんなに体が動かないのでしょう。監視カメラの性能がいくら向上しても、人間の代わりにはなりません。

異変に対応できる感受性と行動こそ、犯罪防止の最大の力です。テロ対策も同じです。テクノロジーや監視システムは、しょせん次善の手段ですから。過剰な期待は禁物です。難しい課題ですが、犯罪を生まない社会へ、ここは人間力の開発を考えようではありませんか。 
                            by G2
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by MYP2004 | 2005-12-05 22:29 | リビングから見た社会

怖いマンション、ホテル続きです・・

姉歯建築設計事務所がらみの構造計算書偽装問題はどんどん大きくなっていますね。
これは問題の根っこにあるものは今の日本の風潮・・何でもかんでも無条件に数字を信じる数字信仰ではないかと僕は見てしまいます。
安さ、広さ、便利さを数字で表し、それを無条件に信じることの恐ろしさとでもいえましょうか?
けれども、我々庶民は数字以外に思考する判断材料を持ち合わせていないのもまた事実です。

僕は写真の仕事をしていますが、ちょっと気になっていたのが昨今のマンションなどの構造・・
工事写真で持ち込まれるフィルムやデジタルデータから得られた画像からは、昨今の大型マンションなどが鉄筋コンクリート構造であることが素人の僕にでも理解できます。
阪神淡路大震災からまもなく11年になろうとしていますが、当時、震災の15年ほど前から高層マンションの建築方法としては鉄骨鉄筋コンクリート構造が一般的であったように思いますし、あの大震災で鉄骨作りであったがゆえに全壊を免れた高層建築物もたくさんありました。
(もっとも、地盤を強くすることを怠ったのか、倒壊した建物もありましたが・・)
ここから先は建築業界の方などの詳しい方に説明して頂かなければ、判然としないのですが、いつ頃から鉄骨作りは遠ざけられ、鉄筋コンクリート構造になってきたのでしょう?
(それは思い過ごしかもしれませんが・・)

話が脇へそれましたが、SRCと言われるつくりが阪神淡路大震災に耐えたのなら、それを基本にやっていくべきではなかったのかと・・これもあくまでも素人の考え方ではあります。

しかし、マンションやビジネスホテルの最新のものがコストダウンのために、とんでもない設計になっていたと言うのは悲しい事実でもあるわけです。
日本は戦後、技術立国を目指してきたはずです。
そしてそれは多くの技術者達の不断の努力で、ある程度形にすることが出来ました。
忘れられないのは、今から10年ほど前でしょうか・・韓国で鉄橋やデパートが突然崩壊する事故が相次ぎ、韓国の建築の杜撰さが日本でも報道されていました。
けれども、時代がかわると、その杜撰な建築が日本でも行なわれていた・・
それは法令の網をかいくぐり、裏を書き、嘘を書き込む、あるいは書類を差し替える・・そういう手口で行なわれ、結果として地震はおろか、数年の時間の経過で自然崩壊する建物まであるというのですから、これはずっと以前の韓国を笑えない状況ではないでしょうか?

阪神淡路大震災で僕が目にした光景の中で、印象的な光景・・
それは、神戸市の郊外、田園風景の中の新興住宅街・・一部損壊と言われたマンションや民間建築物の中にあって、唯一全壊していた山陽新幹線の高架橋・・そこからぶら下がった線路・・
震度6といわれた地域での、この惨状に首をかしげたものです。
地震がおきたのは、列車が走っている時間でなかったのは不幸中の幸いではありましたが・・
当時の民間マンション以下の耐震性しか有していなかった国家プロジェクトがあらわになった日とでも言いましょうか・・

当時でも鉄筋コンクリートに海の砂を使ったとか囁かれていたその噂が、嘘でなかったことが確かめられた時でもありました。
図面がきちんとしていても、現場で図面どおりの材料を使い、図面どおりに工事がされているか、出来上がったものを確かめる術も無いのが実情ですね。
建築業界の信用が大きく傷ついた今こそ、業界上げて信用回復に取り組んで欲しいところではあります。

けれども、もしも、次に大きな地震がどこかの都会を襲えばどうなるのでしょう?
新築数年の立派なマンションの崩壊した姿が、あちらこちらに見られるのでしょうか?
どうか、そんな恐ろしいことが起きないように・・願いたいものです。
その建物には人が住んでいるのですから・・
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by MYP2004 | 2005-12-02 16:25 | 神戸舞子から世間を見ると