私は最近、ある事に気がつきました。中国や韓国を忌み嫌い、「南京虐殺はなかった」「従軍慰安婦」はいなかったと主張し、靖国神社参拝を賛美する方々は、アジア太平洋戦争が日本人にどれほどの苦しみを味あわせたか、知る機会がなかったのではないでしょうか。
日本でも戦後20年ぐらいは、辛く過酷な戦争体験が日常にあふれていました。両親からもよく聞かされたし、そういう映画もたくさんありました。テレビでも、夜の8時というゴールデンタイムに、「戦友」というドラマをやっていたぐらいです。私のような戦争を知らない子どもには、唖然とするような恐ろしい内容でしたよ。 言論の自由に対する過酷な弾圧。生徒が教師を密告し、天皇陛下の「て」という言葉が聞こえたとたん、直立不動にならなければいけない社会・・・。息子が戦死しても、「靖国の母」として、人前では泣くことも許されなかったのです。異性と仲良くしても、ジャズを聴いても非国民。もちろん、戦争に反対することは拷問と死を意味しました。 そして何より凄まじかったのは、軍隊における異常ないじめと虐待。日本軍はサディズムの世界でした。何の理由も意味もなく、上官から毎日殴られ蹴られるところでした。実戦の方がまだマシなぐらいで、いざ戦闘が始まると、敵ではなく上官を撃つ兵士がたくさんいたのです。日本軍兵士がアジア各地で繰り広げた残虐行為は、そういった日頃のうっぷんを晴らすものでもあったわけです。 「嘘だ〜!」という方は、「真空地帯」や「人間の条件」、「暁に祈る」といった映画を観てみてください。黒澤明の「我が青春に悔いなし」もオススメです(いずれもビデオかDVDあり)。軍国主義から解放された日本人が、どんな思いで戦争を振り返ったか。そこには、元兵士の多くが口を閉ざして語らなかった、日本軍内部の凄まじい実態が描かれていました。 多くの日本人はようやく知ったのです。「天皇の赤子」「アジアの解放」という美名の下に、何が行なわれていたか。「あんなに辛い思いをしたのに加害者だったなんて・・・・」。この無念さが、日本人の複雑な精神構造を作り上げました。この点は韓国や中国の人には、なかなか理解できないかもしれませんね。 日本人は戦争責任について考え続ける必要があります。東京裁判は勝者による不公正なものでしたが、だからといって戦争を遂行した指導者たちに責任がないとは言えないでしょう。またそれに協力し、戦争を嫌がる人を迫害した日本人も大勢いました。そして、軍隊内部で思うがままに暴力を振るった鬼のような上官たちも、戦争が終わったら良き父に戻っていったのです。 あれだけの残虐性はどこから生まれてきたのか。繊細で気配り上手の優しい日本人が、どうして集団で狂ったのか。これは今につながる重要な問いかけです。これらの問題を隠蔽し過去に目を閉ざすことこそ、本当の反日だと私は考えます。そして真の愛国心とは、この問題意識を持ち続けることだと思っています。by G2 ええとそのぉ、「南京虐殺はなかった」「従軍慰安婦はいなかった」と主張される方々は、自分達は愛国者で、「加害者としての過去を直視しようというヤツは日本嫌い」だと思っているようです。これが議論の大前提になっているんですよね。
で、愛国者は中国や韓国を声高に批判し、日本だけが唯一無二の素晴らしい国であると主張するものだと信じていらっしゃるようです。 でも、それってちょっと違いません? そもそも国とひとくちに言っても、国家体制と国民とは別物。国とは、仲間や家族などの愛する者たちの延長ではありません。この両者を峻別してこそ近代人。 お互いを尊重し合うのも愛国心です。私たちが日本を好きなように、中国の人は中国が好きなのでしょう。それを認め合わないと、健全な愛国心は成立しないと思います。 それに、「日本も好きだけど中国も好き」という愛国心もあります。グローバル時代の愛国心は、こういう開かれたものではないでしょうか。 実例を挙げましょう。私が愛読している二つのブログの書き手です。 一人は武漢大学に留学中の男性。中国に来て、日本人であることを強く意識すると共に、アジア人であるという意識が出てきたと書いています。 「心の中でのアジア人宣言」4月3日のブログです。 http://blog.livedoor.jp/sdi054/ もう一人は上海在住の女性。 中国に骨を埋めるつもりだけど、日本も大好きだそうです。 「上海の魔物 中国との関わり方」3月9日のブログです。 http://blog.livedoor.jp/sdi061/archives/2006-03.html 私も日本が好きですよ。中国の茶色っぽい大陸的風景を見ると、緑したたる日本の山河はいいものだと思います。川もきれいだし。相手に気を遣うし秩序感覚に秀でているし。 北京のマクドナルドで、真面目に並んで中国人に割り込まれ、お人好しでお土産の押し売りに根負けし、タクシー運転手さんの乱暴な運転に脅えている日本人をみると、つくづく島国から来た仲間という感じがしました(笑) でも、主張がはっきりしていてパワフルな中国の人もまた、面白いなと思うのです。国土が広いとああいう気質になるんですね。ハチャメチャで、何でもアリ(笑)びっくり箱のような国です。上海に行ってきた近所の人が、「中国に行くと子どもに戻れる」と言っていました。 戦前の日本はアジアに出て行くのに、大東亜共栄圏という思想を掲げて失敗しました。戦後は専ら経済的関係に専念してきました。でもそろそろアジアの仲間として、もう一度関係を構築する時に来ていると思うのです。 by G2 「城門を出たところにあって、欄干に獅子の像がずっと並んでいる石橋なんだ」。子どもの頃から、繰り返し父親から聞かされてきた盧溝橋は、北京市中心街から車で40分ほどのところにありました。平日の朝ということもあり、人影もまばら。足下から寒さが伝わってきます。橋だから河に架かっているはずですが、ほとんど水はありません(笑)。
マルコポーロが感嘆したという盧溝橋。父親が言っていた通り、欄干には小さな獅子の像がずっと並んでいます。一つひとつ顔も表情も違うんですよ。それがとても可愛くてユーモラスなので、歩きながら笑っている私たちを、通りすぎる中国の人たちが不思議そうに振り返って見ます。事件から70年目の盧溝橋は、悠然としたたたずまいを見せていました。 北京の歴史的建造物は今、オリンピックに備えて復元の真っ最中。盧溝橋付近も「旅遊区」として再生中です。城門の手前はかなり復元されていて、清朝時代にタイムスリップしたような不思議な気持ちになりました。 それにしても、日本の自然とはずいぶん違う、茶色っぽい広陵とした風景。中国の大地はどこまでも続いています。徴兵され、海を越えてここまで来た日本軍の兵士たちは、どういう気持ちでこの風景を眺めたのでしょうか。緑したたる故郷の山河を、さぞ恋しく思ったことでしょう。 国家が戦争を行なうということは、何と野蛮で無惨なことか。それにしても、この広大な中国大陸を支配しようとしたなんて、愚かにも程があります。まさに狂気の沙汰。あの頃の日本は狂っていたんですね。 さて、近くには中国人民抗日戦争記念館があります。入り口には人民軍の兵士らしき人が立っていて、ちょっと緊張。ちなみに、兵士はどこでも直立不動です。三時間で交代するそうですが、それにしても大変そうです。ガイドさんが言うには地方の若者たちで、最近は成り手が減っているとか。 その抗日戦争資料館。子どもたちが社会科見学などで訪れるところで、いわゆる反日教育のメッカの一つのように言われています。しかし、見てみた感じでは淡々とした展示です。娘たちは「広島の原爆資料館みたい」と言っていました。 しかも、最後は国交正常化以後の交流について展示されていて、未来志向で締めくくっています。日本人以外の外国人が見ても、違和感がないのではないかと思います。日本人の私たちにもあまり違和感がありませんでした。 平日の朝ですから、館内には中国の人はちらほらいるだけ。あとは私たちが出て行く時に、卒業旅行らしき日本の若者グループが来たぐらい。しかも彼ら、何としても学生料金で入ろうと、日本の免許証を出したりしていたけど、大丈夫だったのかしら(笑)。 盧溝橋と抗日戦争記念館は、北京に来た日本人にはぜひ行ってもらいたい場所です。ここに来て、侵略に走った日本近代の悲劇について、思いをめぐらせてもらいたいと思います。日本の軍国主義は、言葉では言い表せない程の惨禍をアジア諸国にもたらしました。しかしそれは、日本にとってもまた大きな悲劇だったと思うのです。 さらなる悲劇は、今もってその事実を直視しない日本人がいることです。黒船の来襲によって開国を強要された極東の島国が、国民国家形成の過程でなぜアジア侵略に走ったのか。どこをどう間違えたのか。これを冷静に検証することは、何よりも日本人自身のために、避けて通ることのできない作業ではないでしょうか。 なぜならアジア太平洋戦争は、出征兵士を始めとする多くの日本人に塗炭の苦しみを味あわせたのであり、この総括なくして、虚しく命を散らした犠牲者の霊は浮かばれないからです。「国の為に命を捧げた人のために祈る」という靖国神社参拝の理屈は、大いなる欺瞞です。by G2 ☆ 盧溝橋事件 中国では七七事変と呼ばれる。1937年(昭和12年)7月7日に、北京郊外の盧溝橋で起きた発砲事件。日中全面戦争の発端となった。 「オリバー・ツイスト」「アサルト13 要塞警察」「クラッシュ」と三本立て続けに映画を観て、善と悪の複雑な関係について、色々と考えさせられました。
「オリバー・ツイスト」は、言わずと知れたチャールズ・ディケンズの名作。ディケンズは、あの「クリスマス・キャロル」の作者です。この話は、今までに何度も映画化されていて、ミュージカルにもなっていますね。 19世紀の階級社会イギリスで、孤児のオリバーが貧困と差別に苦しめられながらも、幸せを手にしていく話です。「何と陳腐な」と思うかもしれませんが、これが驚くほど今日的。ラストシーンでは、あちこちからすすり泣きが漏れるほどでした。 なぜ泣けるかというと、孤児たちを使って荒稼ぎをしていた泥棒であり、悪党のフェイギンが処刑されていく姿に、悪の複雑さと奥行きが感じられるからなのです。フェイギンは悪党ではありますが、孤児たちを養う優しさも持っていました。生まれや育ちが違っていたら、フェイギンはこういう人間になっただろか。 悪に染まるしかなかった運命の過酷さに、私は思いを致さざるを得ませんでした。悪を生み出すものは何なのか、悪そのもののような人間が時に見せる善人の顔と人情を、どう解釈したらいいのか。人生について考えさせられるラストです。 「アサルト13 要塞警察」はリメイク。容疑者4人を護送中の車が吹雪で行く手を阻まれ、近くにあった13分署で一夜を明かす事になります。そこは、かつて判断ミスから部下を死なせたトラウマに苦しむ巡査部長以下、数人がいるだけの小さな分署。そこに謎の武装集団が襲いかかってきます。 武装集団の目的は、容疑者の一人を口封じのために殺すことでした。外部との接触を断たれ、吹雪の中で孤立した13分署。とても対抗できないと悟った巡査部長は、容疑者を一時的に解放して武器を持たせ、共に武装集団と戦うという危険な賭けに出ます。 警察官と容疑者たちの疑心暗鬼、そして対話。内にも外にも敵を抱え、トラウマと戦いながら奮闘する巡査部長の前に、やがて本当の悪人・・・黒幕が姿を現します。派手な銃撃アクションですが、それだけでは終わらない苦い後味が残ります。正義を掲げる組織はなぜ腐敗するのか。正義という大義名分は実に危ういんですね。 「クラッシュ」は、もうすぐ発表されるアカデミー賞6部門にノミネートされている群像劇。「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本を書いたポール・ハギスの初監督作品と聞いて、一も二もなく観に行きました。 舞台は、白人と非白人の比率が逆転しつつあるロスアンゼルス。非白人に対する優遇政策で、より複雑になった民族間の摩擦と緊張感は、息苦しいばかり。「強者」と「弱者」が複雑に入り交じり、本音と建前が使い分けられる現実がそこにはあります。 その中で、人種差別主義者の警官が寝ずに父の介護をし、正義感溢れる若い警官がアフリカ系の若者を殺してしまう。何と皮肉なことでしょう。面白い映画は決まって、悪の描き方が優れています。 善と悪は複雑に絡み合い、しかも突き詰めると繋がっている。どちらも絶対ではなくて、関係の中で様々な現れ方をするわけです。そんな現実をかいま見せてくれる映画でした。現実を善悪二元論で見る単純さを思わずにはいられません。 by G2
誰もが驚いた三人目の政治的?妊娠で、久し振りに紀子さんが脚光を浴びています。朝日は朝刊の一面に「笑顔やわらか」という言葉を添えて写真を載せていましたが、こうしないと読者のニーズに答えられないんでしょうかね・・・。
それにしても、久々にとっくりと見た紀子さんの表情が、美智子さんにそっくりになっていて驚きました。見事に皇室に適応しましたね。適応できず、そのまんまの適応障害になった雅子さんとは対照的です。 紀子さんは社会に一度も出ることなく、学生のまま結婚して皇室に入りました。男女雇用機会均等法一期生として、総合職女性のシンボル的生き方をしていた雅子さんとの違いはここにあります。20代をどう過ごすかによって、女性が大きく変わるということがよくわかりますね。 古来、女性は環境適応力に優れていると言われてきました。私が学生の頃までは、半ば蔑みのニュアンスを込めて、男達はそう公言していたものです。「だから忍耐強い」とか、「単純労働に向いている」とか。女性自身も、それを美徳のように思っている節がありました。 でも今、雅子さんを見ていてはっきりわかります。社会経験によって培われた強い自我は、性差を緩和させるのです。つまり、男女は共通体験によってかなり近づくということです。性差は無いわけではないけれど、私たちが思い込んでいるほどではないし、増してや脳の構造による絶対的なものでもない。個人差が大きいということです。 ジェンダー・フリーという造語はちょっとイデオロギー的で、セクシュアリティーに対する配慮に欠けていました。その弱点をいま突かれているわけですが、だからといってこれを攻撃して否定するのも、現実から目をそらしているという点では同じでしょう。 性差を異性の前で演出するのは重要なテクニック(笑)。それだけでも、性差が社会的文化的な産物だということがわかります。最近はホモ・セクシュアルや性同一性障害も少しずつ理解されてきて、性差絶対主義は前提が崩れています。 要は性差を大事にして生きたいか、それよりも個人として生きたいかという問題。で、個人として生きたい人を認めるというのが、ジェンダー・フリーの本来の意味なのでしょう。社会学の教科書にも載っている学術用語であるジェンダー問題を追放しようなんて、やはり時代錯誤だと思いますが。 by G2 堀江元社長逮捕をめぐるマスコミのすさまじい報道ぶりを見ていて、私がずっと感じていた違和感の正体がわかりました。それは、「ホリエモンは果たして勝ち組だったか」という疑問です。
階層上昇を遂げて体制入りするには、人間の価値とは無関係に社会的資産が必要です。生まれ、育ち、人脈、学歴、能力、容姿etc・・・。それらに恵まれている人は、スタート地点から優位に立ち、体制の中でぬくぬくと生きていけるのです。 特に大切なのが最初の三つ。しかし、これは本人の生き方や志ではどうにもならないものですから、これで優位に立つのは理不尽だし、こういうものを重視する社会は停滞します。公正な社会とは、こういうもので人生に差がつかないよう、最大限の努力をする社会のことでしょう。 小泉政権では、このような社会的資産に恵まれている人間が大きな顔をしています。苦労知らずの冷酷な人たち。人の話はまともに聞かないし、国会での答弁にも誠意が感じられません。 一方、ホリエモンはどうか。彼は最初の三つにはさほど恵まれていません。彼が獲得したのは学歴です。しかし、学歴だけでは体制に指定席を確保できません。イギリスのパブリックスクールに入った労働者階級の秀才が、どれほど苦労するか。日常のしぐさ、微妙なアクセントの違いを笑われるのです。 日本にはそんな階級はありませんが、楽天・三木谷が大学と興銀時代の人脈にどれほど守られているかを見れば、その差は歴然です。中退で起業して既成の組織に入らず、階層上昇につながる人脈のないホリエモンは、本人のキャラもあって、いつも最後に逆転される運命なのです。 ホリエモンには、日本的なエリートの匂いがありません。ライブドアは寄せ集め集団で、学歴や大学名でつながっていなかったことがわかります。社会的資産の中で唯一手が届いた学歴をテコに、ホリエモンは寄せ集めの仲間と階段を駆け上ろうとしました。同じ動機を共有する宮内元取締役と、二人三脚で。 そんなホリエモンにはいつも、不安定感がつきまとっていました。毛並みの良くない人間は、どこまでいっても成り上がり扱いです。彼にはお金しかありませんでした。東大の佐藤俊樹助教授が、「持たざる者の反乱」「庶民派のダーティーヒーロー」と形容していますが、言い得て妙というべきでしょう。容姿も庶民的です。 「勝ち組になりたい!」と強く思わなければならなかった人なのです。そして、勝ったと思った途端に挫折。「体制の壁は厚いなぁ」というのが私の実感です。最初から勝っている人は、勝とうと思う動機そのものがないですからね。彼の言う「人の心は金で買える」というフレーズは、「人脈などのバックがなくても」という意味だと、私は解釈していました。 庇護者のいない子どもっぽい野心家と寄せ集め集団が、既成の社会秩序にどこまで食い込めるか。これがホリエモン劇場の最大の見物でしたが、結局は法に触れて犯罪者になってしまいました。権力に近づいた甲斐もなかった。ホリエモンに、ある種の爽快感を抱いて期待した人々の心情はどこへ向かうのでしょう。 価値観が多様化する中、ホリエモンの哲学には万人を納得させる深みと普遍性がなく、それが躓きの原因になりました。野心だけで暴走してもうまくいきません。でも、社会的成功のチャンスは誰にでも開かれるべきです。 世襲議員が牛耳るこの国で、いま社会は閉塞感を増すばかり。ここをどう突き抜ければいいのか。生まれついた場所から抜け出したい人間はどうすればいいのか。これが、ライブドア事件が私たちに突きつけた課題です。 by G2 テレビで放映されている連続ドラマの人気が落ちているそうです。そう言えば、我が家でも全く観なくなりました。今何をやっているのかも知りません。年齢のせいかと思ったのですが(それもあるかもしれませんが・・笑)、状況は大学生の二人の娘も同じなのです。
どうしてなのか考えてみました。まず「忙しい」。毎週同じ曜日の同じ時間に、ドラマを観ることは難しいですよ、実際。娘たちも、少し前までは「このドラマ観てみよう」などと言っていましたが、年中「あ、忘れた」と言いいながら・・・ついに観なくなってしまいました。 その上、趣味や嗜好はどんどん多様化・・というより、個別化しています。社会は、趣味や嗜好を同じくする無数のグループに分かれつつあり、他のことには興味を示さないという人も増えています。テレビが娯楽に占める位置は低下する一方です。つまり、テレビは面白くないのです。 それなのに、テレビは視聴率という物差しで世界をみている。視聴率トップと言っても、普通はたかだか20%台ぐらいでしょう? テレビをつけている人の5人に1人が観ているといったって、全体から観れば大した数ではなかったりするわけです。一喜一憂するほどか。 今の時代、一番人気といってもその程度。それなのに、その最大グループが大勢であるような取り上げ方をする。新聞もそんな感じですよね。こういう在り方に、違和感を感じている人は少なくないと思います。これを私は、「マスコミの小選挙区化」だと考えています。 小選挙区化は、民主主義の肝要である多様性を潰します。政治から始まって、社会全体に広がる小選挙区化。最大勢力である無党派層を無視して「民意」を語る新聞。その安易な姿勢は、やがて社会を衰退させるでしょう。 ところで、迷走を続けるNHKの新大河ドラマは「功名が辻」。夫を出世させる妻を讃える言葉、「内助の功」の手本とも言える山内一豊の妻を描いたものですが、一体誰をターゲットにしているのか。しかも視聴率を上げようと、日テレ顔負けの連日連夜の大宣伝。どうかと思いますね。 by G2 日本の人口が初めて減り始めて、「国力が衰える」「年金や医療保険制度が崩壊する」と大騒ぎになっています。
「産みにくい、育てにくい社会だ」という意見も多く、猪口少子化担当大臣が「子供や母親の目線に寄り添った施策を」と記者会見で言っていました。こういう視点は歓迎です。頑張れ、猪口大臣! 青いドレスの件は水に流すぞ。 この際、残業が当たり前の社会も、「男は外、女は家の中」という根強い慣習も、「仕事しながらの子育ては無理」な環境も先入観も、全て根本から変えていったらどうでしょうか。経済至上主義を支えてきた性別役割分業こそ、少子化の黒幕の一つです。 子どもは皆で育てましょう〜♪ 「仕事か子育てか」の二者択一を迫るような社会は、人口が減る一方ですよ。人間は高等生物であって、生殖だけのために生きているわけではありませんからね。 産まない自由もアリです。豊かになって高等教育を受ければ、子育てが全てというわけにはいきません。子育てを女性の責任にする社会は人口が減ります。 「女性がワガママになった」とか、「子どもを産まずに人生をエンジョイした女性の老後を、国が見なくてはならないのはおかしい」とか、見当はずれの放言のしていた政治家たちの責任を問いたい。 今や社会学の教科書にも載っている常識的な概念であるジェンダーを、今さら「過激だ」と駆逐しようとしている政治家たちも、間違っていますよ。 そもそも、どうして「国力の衰退」というような体制の言葉で語られるのか。大切なのは、皆が幸せに生きていけることでしょう? 特別に能力が高くない人も障害のある人も、夢を持って生きていける社会こそ「活力ある社会」。子供の数が多ければいいというものじゃない。 それに、若者の就職も自活も難しい状況で、子どもだけはつくれというのか。自分が生きていくのがやっとの若者も大勢いるのに。それに、結婚するためにはまず恋愛が必要。それが難しいんですよ。 愛と相性を大切にすればするほど、簡単に相手は決まりません。チンパンジーだって相手選びが難しく、なかなか子どもができないのですから。こういう社会では、結婚せずに子どもを持つ生き方も認めないと。家庭の大切さばかり強調するのは逆効果です。 総じて、少子化対策の根本は「夢」と「恋愛の対象となる魅力的な異性」。それを成立させる「懐の深い社会」と、「自由な生き方を支える仕組み」です。憲法の前文で個人の自由を制限しようとしている現体制の意向は、まさに逆行です。 司馬遼太郎は日本の未来像を、「美しい停滞」という言葉で表現しました。それもいいかもしれませんね。ひたすら数的発展を目指していた近代日本が終わったのですから。時代の転換点です。今必要なのは、一時流行して空振りに終わった「発想の転換」。今度は本気でね。 by G2
三浦展著「下流社会」(光文社新書)が売れているらしい。「下流」という言葉は、今や流行語になっています。この本自体はまぁ、軽〜い内容。タイトルのインパクトが全てと言ってもいいのではないでしょうか。
なるほど「下流」ねぇ・・・。「上流」があるのだから「下流」があってもおかしくありませんが、それにしてもうまいタイトルを付けたものです。さすが、バブル期のマ−ケティングをリードした元「アクロス」編集長だけのことはある。帯に書かれている「いつかはクラウンから、毎日100円ショップの時代へ」というキャッチフレーズも憎い(笑)。 で、下流とは「ただ収入が少ないだけではなくて、何事にも意欲が低い」のが特徴だとか。この「意欲の低さ」をめぐって今、議論百出なのです。ここから、「今の若者は意欲が低い」「もっと競争心を持たないとダメだ」という主張が出てくるわけです。 で、私がこだわるのもここ。どうして意欲が持てない若者が出てきたのか。様々な理由があるわけですが、見落としてならないのは、著者を始め多くの論者が比較の基準にする高度成長期は、特別に皆が意欲を持てた時代だったということです。 あの時代は本当に特別だったのですよ。その社会が数百年に一度ぐらいしか経験しない、特別な発展期。小学校しか出ていない人が総理大臣になれたぐらい、社会の流動性も高かった。学歴社会のように見えて、実は抜け道がたくさんあり、はみ出し者にも居場所がありました。 でも今は、政治家の家に生まれるか、アメリカに行ってMBAを取ってビジネス・エリートにならなければ、難しいでしょう? だから、「昔は」と言って、あの時代を基準にしてはいけないと思うのです。 頑張れば誰でも豊かになれて、みんな結婚できた。そういう時期は歴史を見ても稀です。私は運良く、経済成長の恩恵を受ける事ができました。でも永山則夫のように、豊かになっていく社会から取り残されて、自暴自棄になって連続殺人犯になった人間もいたのです。あの時代でも。 そして今、高度成長の果実が消え階層分化していく現実の中で、夢を持ち続けて向上していくには相当な精神力と能力を必要とします。24時間以内に発送するため、注文された本をアマゾンの倉庫でひたすら探し続けるフリーターに、六本木ヒルズ入りを目指して頑張れと言えるでしょうか。 気持ちだけで現実を切り開ける社会ではなくなっているのです。生き方や価値観は、つまり意識は多様化しているのですが、それを生かす仕組みにはなっていません。逆にどんどん閉じていて、実際の選択肢は狭くなっています。しかも、早い段階でその壁に突き当たります。これは、20才前後の若者たちに接している私の実感でもあります。 こういう事態を招いた原因の一つは、能力を細かく査定するシステムの整備にあります。「チャンスは平等に与えられている。成功したのは努力したからだ」という言論の勘違いは、能力差をはっきりさせることがモチベーションを上げるという思い違いから来ています。 点数を入力すれば、たちどころに小数点第二位まで偏差値が出て、受験可能な学校が明示される。そこで自分の未来は見えてしまいます。そもそも夢を持てる社会というのは、自分のポジションがもっと曖昧なんですよ。曖昧にしておく良さというのがあるのです。 なぜなら、ほとんどの人はそんなに高い能力を持っていないからです。能力の厳密な評価よりも期待や激励の方が、はるかにモチベーションを高めると思いませんか。よく政治家が「競い合う気持ちが欠けている」などと言いますが、見当はずれもいいところです。 私は大学院に進学する時、奨学金の申請をしました。幸い給付が決まって通知が来て、そこにこう書いてあったのです。「あなたを社会に有為な人材と認める」。それは全員に伝えられる形式的な文言に過ぎなかったのですが、あの時の感動を、私は今も忘れることができません。 by G2
京都で、大学生のアルバイト講師が塾の教室で生徒を刺殺しました。子どもが被害者になる悲惨な事件が相次いでいるだけに、「今度は塾で」「塾までもが」という衝撃が広がっています。本当に絶句ですよね・・・。
実際には、塾を舞台にしたトラブルはしばしば起きていました。今までは学校での事件の陰に隠れていただけで、全くの想定外ということはなかったのです。この事件は、講師の個人的資質にのみ原因を求めるのではなく、多様な視点から見ることが必要だと思います。 実は私、日能研のリュックを背負った子どもたちが、夜の10時頃に電車に乗っていたり、コンビニでアダルト雑誌を立ち読みしていたりしているのが、以前からすご〜く気になっていたのですよ。 大学生の二人の娘も、「ああいう生活、良くないよね。だいたい危ないし」といつも心配しています。(日能研は、首都圏に広く展開している、中学受験のための塾です) 夕食はどうしているのでしょう。お弁当を持っていったり、帰ってから食べたり色々らしい。中には、近くのマクドナルドと提携している塾もあるそうです。 近所でこの春、一人の少年が中学受験に成功しましたが、塾へ行く日は母親がお弁当と着替えを持っていき、中野の丸井で急いで食べさせて着替えさせ、塾へ送り出すという生活でした。それが5年生になるとほぼ毎日でしたからね。 「食育」とか何とか言いながら、塾通いによる食生活への影響はあまり話題にならないのね〜。何か、話がいつも「家庭」と「母親」に収れんされるようで、納得がいきませんが。 それと、小学校高学年という難しい時期の少女を、大学生がどこまで指導できるのかということも、日頃から気になっていたことです。 「現役高校生のための塾」で急伸している早稲田塾は、広告に力を入れる分、講師料を削って大学生を積極的に雇用していますが、高校生と大学生というのも微妙な距離ですから。気をつけないと。こういうことも「危ない」と囁かれながら、何か事件が起こるまで放置されるんでしょうね・・・。 また今回の事件は、女の子の口達者を軽くかわせない不器用さや、プライドの高さも一因となっていたのではないかと思われます。塾講師に多いこういう秀才タイプの共通点も、これからは考えていかなくてはならないでしょう。 というふうに、様々な要因が絡んでいると思われる今回の事件。再発を防ぐためには、多角的な分析が必要だと思います。 by G2 < 前のページ次のページ >
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